光市母子殺害事件の弁護はひどすぎる

 殺意否定ですか。人というのは、ふつうだったら「死なないように」手加減するものなんじゃないですかね。子供のケンカだってそうですよ。少なくとも私は、取っ組み合いにあっても心の中で「これ以上やったら取り返しのつかないことになる」という理性が働いていました。騒がれないようにと口を押さえるにしたって、子供だって「息はできるように」と配慮しますよ。しなかったら「息できなかったぞ!」と猛抗議です。そして、たとえば遊びの中で騒いでいたほうが悪かったのだとしても、息をできなくしてしまうとそちらがたちまち悪になったりしたものです。

 つまり、「殺す気」があったかというよりも「死なないようにする気があったか」が重要だと思うのですよ、ふつう生きていく上では。その辺が、今の刑事事件でおかしなところだと私は思っています。つまり「殺す気があった=殺人」となっていますが、「死なないようにする気がなかった=殺人」じゃないですかね。これは未必の故意とはまた違うと思うのです。致死罪ともまた違う。生命力なんて人それぞれなのですから、積極性をもって「死なないように」しなかったのであれば、それは殺そうとしてるのと同じですよ、知的生命体としてね。

 「死なないように」積極性を持ったが死なせてしまったのならば、はじめて致死罪となるのじゃないでしょうか。たとえば口を押さえた。息ができるように鼻はふさがらないようにした。しかしその人が極度の鼻づまりであることを知らなかったために死なせてしまったとかです。あわてるあまり口をふさぐつもりで喉を絞めてしまいそのまま死に至らしめてしまったということは、その人を「死なないように」拘束できているかという配慮がなかったわけですから、やはり犯人は殺人者なのです。少なくとも私の定義ではね。