靖国問題

 小泉首相靖国神社参拝によって日中関係が冷え込んでいるのは周知のことである。これについてわしの考えおば。
 もし、小泉首相が宗教的思想をもってして参拝をしているのであれば、わしは参拝には賛成である。誤字ではない。政教分離とは言うが、宗教的思想がない限りこの行為は正当化できないのだ。
 わが国に端を発した宗教といえば「神道」である。「神道」は、「神社」を信仰のよりどころとなる施設として用いており(言うまでもなく「寺」を信仰のよりどころとなる施設として用いるのは「仏教」)、靖国神社神道の施設ということになる。
 もともとの神道には、実は「葬式」という儀式がなかったと言われている。なぜならば、神道において「死」は「穢れ(けがれ)」であり、穢れを極端に嫌う神道思想においては死者に近づくことすら忌み嫌われたのである。
 この考え方は、多くの神を生んだイザナギイザナミの夫婦神の逸話にも現れている。イザナミの死後、イザナギは死者の世界にイザナミに会いに行くが、死者の世界から帰ったあとに「みそぎ」を行っている。つまり、死の穢れを洗い清める儀式を行うわけである。このような行動は、他の神話ではあまり見られない。
 また、我々現代日本人にもその思想は図らずも残っている。たとえば、小学生が汚物に触れてしまった場合の行動だ。物理的な衛生性を超えた何か「汚いもの」が伝播するかのような擦り付け合いを行ったりする。また、人に対しても「○○菌がうつる」などとして「穢れ」を定義して忌避し、いじめたりする。これは、日本人の「穢れ」と「清め」の思想の表れだろう。
 さて、そんなことで、太古の昔には日本神道に葬式はなかったのである。しかしながら、日本は八百万の神の国である。人は、時として神になるのだ。この世に未練を残していたり、強い憎しみを抱いていたりすると「荒御霊(あらみたま)」となり、やがて「禍津神」や「荒ぶる神」として災厄を振りまき始めるのである。これが「たたり」である。こうならないように残された人たちは、霊を慰めるようになった。それは葬式に似ているがちょっと違う。神を慰める行事、すなわち「祭り」を行うのだ。つまり、今でこそ当たり前になっている神式の葬式は、実は「祭り」なのである。この祭りは、よく知られる縁日などがでる「祭り」とは少しニュアンスが違うが、地方によっては、飲めや食えやのどんちゃん騒ぎになることすらある。そうして死後の魂を慰めて「和御霊(にぎみたま)」として落ち着かせ、禍をなさないようにするのである。
 ということで、靖国参拝である。以上のような考察からすると、戦犯が「荒御霊」としてたたり、日本を軍国主義に導かぬよう参拝して慰めているとすれば、何も問題ないのではないだろうか。それにいちゃもんをつけてきたら、それは宗教戦争を起こそうとしているようなものである。他国の文化にケチをつけているわけだから。
 小泉首相もこのように薀蓄のひとつもつけて説明すればいいものを。